熱い男を目指して

「熱さ」の魅力を探究する徒然なるブログです

「逃げる」というコマンド

  日本を一世風靡したドラゴンクエスト

  今、改めて思う事がある。

  それは、このゲームには、「逃げる」というコマンド(運の要素もあったが)があった事。


  子供は偏差値第一主義の教育と風潮、大人は縦割りの年功序列制と、成長している時代なのに、息の詰まる逃げ場の無い社会。

  そこに「冒険」という名の下に、ストーリーが存在し、当時は何気なく「逃げる」コマンドを使っていた。


「生きる」。そして、「ボスを倒す」という目的の為に、でも、堂々と存在するコマンド。
  現実社会になかなか挿入しずらい物だった。  

  世の中の少ないレールから外れる恐怖は、前例の無い、底無し沼に落ちるイメージが強かったから、「逃げる」というコマンドは深層心理に強く印象づけられた。


  目的を達成する為には「逃げる」はあっていい。
  ただ、使う時に大切な事がある。それは、現状(自分、相手、仲間、周囲の人、環境)を正確に分析し把握しておく事。そして、逃げる事に対して、先をイメージし目的を持つ事。最後にもう一度挑戦をする事。
  それがあれば、後向きな逃げでは無いので、必ず生まれるものがある。
  私が空手を始めた時、最も感じたのは、恐れて下がった時、これ以上ないくらい不利になるという事。相手からすれば、こんな楽な事は無いのです。

 

チャレンジを続ける為に

あるサイトを見ていたら、面白い発想を見つけました。

「人は年齢を重ねると沢山の経験を積みます。経験を積む事は、色々な判断を迷いなく行い、安定した結果を得る事には、とても役に立ちます。

  その一方で、色々な事からの「新鮮さ」「面白さ」「ワクワク感」を奪うとも言えるのです。

  だから、年齢を重ねるほど、本当に、「新しいもの」にチャレンジして、新しい学びを得たほうが良いのです。」

 日々努力と経験を積む大切さを実感しています。でも、その行為自体に「思考の変化」も併せて持たなければ、少しずつ「興味」という人を動かす原動力を削いでしまう。

  「環境の変化にも、目を向けて、恐れずに、一歩を踏み出し続けなさい」と言われたように感じました。

  真っ直ぐに、迷わないようにする為に、つき進んでも、その行為自体の結果に直面する壁もあるのですね。

  チャレンジする事の「目的」を別の角度から知りました。

情熱の振れ幅

  情熱の振れ幅は、人の内なる思いの深さ、それに基づく行動、そして結果に対する解釈の仕方が、影響を与えると感じる。
   心の中で、凝縮され、強い圧力と熱量を持ったエネルギーが、その人の内なる思いに伝わり、発する言葉に乗って、熱意として飛んでいく。
「情熱」は目に見えないもの。それを感じさせてくれる人を見た時、共通している事がある。
  見た目では「瞳孔が大きく開いている」、受ける方では、「言葉が耳ではなく体に入ってくる感覚を受ける」と言った印象である。
  他にも、あるかもしれない。
  今はそうある為に、自分の思考に語りかけ、持っているものを、出来るだけ全周方向から観察し、同じ物を観てるのに、違う事があったと気づけるようにして、情報と興味を蓄積させている。

  それを言葉として放出が出来たらどうなるかを試している。
 
 

 

物事の本質

  元サッカー日本代表監督。イビチャオシム氏の記者会見の様子をドキュメンタリーで見た事がある。

 

  基本的に日本の記者は、他の競技を掛け持ちする記者が多く、しかも、見た目の数字が取れる回答を引き出すような質問をする。
でも、オシムの記者会見を見ると、全く別世界で、物凄い緊張感を感じた。
 

  空気を読めず、いつものように質問をした記者に対し、オシムは語りかけるように言う。その質問の意図、そして、内容の本質の原理を理解して発言しているのかを問われるのである。
  更に追い討ちをかけるように、記者として何を伝えたく質問しているのか、そもそも、貴方は記者としての価値があるのかまで、問われてしまうのである。
 

  生活として行っている仕事、そして、質問される側にもそれがある事、その為に、プレーヤーがどんな準備、考え、判断をしていたかを想像して質問しているのかを問われるのである。
   

  言葉にはとても大きなエネルギーがあり、その影響力を痛いほど理解しているから、それが出来るのだと思う。
 

  物事の本質は、多数の解釈によって幅が広がり、柔軟さを生み、新しい事を生む。
  しかし、コアには本質の理解を持ち続けなければならないと、改めて思う。

 

的が外れている悲しさ

   的が外れた行動。それは、何一ついい事を生まない。受け手の許容範囲を超えた時、信頼を失う事となる。
  本人の真剣度が高いほど、相反するように、悲しいくらい信頼度が加速度をつけて無くなっていく。


  的外れの要因は、「物事の本質」、「相手の心の真意」といった、見落としがちであったり、目で見えないような、でも大切な部分に気付けない事にある。


  そこに気付けていない、でも、真面目な人にとっては、とても辛い日々が続く。やってもやっても周囲から認めてもらえないのだ。何がいけないのかさえ理解することすらできないのである。周囲に関わっている人で、理解を示している人がいる時、必ずシグナルが送られている。大抵は本人が聞こうとしていないだけである。


  それを乗り越える時に、一つキーワードになる要素がある。それは「素直さ」を「取り戻す事」。「意識する事」。そして、「そのまま動く事」である。


  それが出来ないのであれば、最終手段で、言い訳せず、苦しみから逃げずに、これ以上出来ないくらいに自分の信念を全て出し尽くす事。  

  結果は、ほぼ100%うまくいかないが、それ以上の言い訳や、やりようが無くなる。結果的に周囲の意見に従わざるを得なくなり、大切な事と自分の間違いに気づいて、好転していくのだ。


  最悪なのは、自分に常に言い訳を持っている事。相手とに真剣勝負をしないので、中途半端な結果しか出ず、永遠に解決には向かわないのである。


  結果、相手、本人共に悲しい結末しか訪れない。

理性のコントロール

  感情に左右されてしまう事。情動を自由にコントロールする事が出来たなら、もっといい判断と行動が取れるのに。そう思う事がある。

  私の近くに、クールに感情を出さずに、コントロールしているかのように見せている人がいる。

  でも実際は、コントロール出来ているのではなく、ただ感情を押し殺し、ロボットの様に動いているだけで、人には心があるから、何処か見えないところで、放出が必要になる。お酒を飲んだ時に数度見た事があるが、狂った様な弾け方だった。方向を間違えたら、人を殺めるのではないかと恐怖を感じた位だ。

  私は、正反対で、社会人になって20年以上になるが感情表現は豊か?(支障がない範囲で出すが、大人としていいのかなと悩む事も...)にしている。時に弱点として抑えが効きにくくなる瞬間もある。表現する分、抑圧される事は少なく、抑揚の幅は、社会生活の上では、許してもらえる範囲で収まっているかなと思う。

  目指しているのは、感情表現は豊かなままに、極度の怒りや、悲しみ、欲が出た時に、社会生活上で協調できる範囲に調整し、理性をコントロールする事。

   生体レベルで極めるなら、「セロトニン」「ノルアドレナリン」「ドーパミン」の放出を操れるようになれば可能であるようなのだが、そんな事が出来るのだろうか。

  そして、調べていったら、EQ(こころの知能指数)というものに行き着いた。今日、ダニエルゴールドマンという心理学者が書いた本を買ってきて、少し読んだが、興味深いものだった。

  読み終わり、自分で試し、変化する事が出来るのか、楽しみにしている。  

  

生きるのに一番必要な能力

  生きていく上で一番必要な能力は、「知力」「体力」でもなく、「適応力」であると考えます。

  仮に頭が良くても、環境に順応出来なければ生きていけません。体力があったとしても、獲物をとったりする時の知恵が無ければ、生きていけません。

  「適応力」とは、どんなに困難な状況下でも、あらゆる手段を駆使して、最終的に乗り越えていける力であり、生存に欠かせない能力なのだと思います。