AIに代用できないもの
AIについて、極限にまで詳しいわけではないので、知っている人がいたら、教えてもらいたい部分がある。
サッカーゲームレベルでも感じるのだが、AIは、やはり恐ろしいと感じてしまう。それは、学ぶということをしてしまうからである。人間と違い、疲れず、サボるという事を、調整をするという事をしないので、結論が早くなる。対峙していると、逃げ道を遮断され押し出されるような感覚になる。
ある雑誌で少し読んだのだが、AIは読み解く力という所は苦手であるとか。そのほかに、人である強みはどこにあるのだろうと、毎日考えている今日この頃である。
感情の起伏をコントロールする為に
感情の起伏をコントロールする為に。
起伏を抑え込もうと、すればするほど、起伏の波を制御出来ずに翻弄されてしまう。それであるならば、一度その波に大きく流されてみるのもいいのではないだろうか。
ただ、一つ間違えてはいけないのが、思いっきり流されてみる事である。直後にとてつもない怖さがくるが、沖の波は意外と荒くない。中途半端に波に乗ると、次々に訪れる波に打ちのめされるだけである。
岸近くで波に耐え続けるのか、中途半端に乗って大きな痛手にあうのか、思いっきり沖に出てみるのか。
本当に波を知っているのは、突き抜けた人だけなのかと感じている。
そこまでいけば起伏の全体の把握ができ、大きな波と思っていたものが、さざ波程度に感じるであろう。
男というものは
あるキーワードを目にしました。
「男というものは、生きているだけで、寂しいもの(感じてしまうもの)」なのだそうです。それも、女性とは違い、子供を産む事が出来ない所から来ているとの事。
そんな発想に至る事が今まで無かったので、衝撃を受けました。
ただ、ずっと考えて、振り返ってみると、合点がいきそうな事が、いくつか出てきました。
遠い昔、思春期を越えて、独り立ちを考えるようになった頃から、当時はよくわからずも、不安感が出てきました。そして親や家に変わる自分の支えになる物を探し始めました。
夢、趣味、友人、異性など、あらゆるものの過程を経た結果、私を受け入れてくれる妻を迎える事になり、一時的に心は安定しました。
唯一無二とはいっても、逆立ちをしても他人である事には間違いはなく、それを繋ぎ止める証(それだけでは無いのだが)が欲しくなり、幸運にも恵まれ子宝を授かりました。
非常に幸福な瞬間を歩んでいるのに、何故か再び不安感が同居するようになります。今まで、何年も探してきた寄木となっているべき存在が、その場所に無い瞬間が出てきて(当然の事ですが、奥様の見る方向が子供中心に変わる)しまうのです。同時に仕事でも困難は倍増します。
そんなもの(自立)、自分で考えて対処出来る様にならなければ(強くならなければ)と頑張れば頑張るほど、何故か解決から遠ざかります。気がつくと方法も間違えてしまい、状況によっては、時すでに遅し(浮気、ギャンブル等の逃避)にもなりかねなくなります。親になりきれていないのかもしれません。
でも、何年もかかって、やっと見つかるものに、そうそう代用できるものなど、あるわけは無いのだろうと思うのです。
今取り組んでいるのは、自分のそもそもの思考法の破壊(女子化も含めて)です。最終的に、事をまとめなければならないので、今までの通り一遍等では、アイディア、柔軟性が無ければ世間で多く見られる結果に行き着いてしまうのではないかと考え危機感を感じています。
後は、現在続いている先人に習うという謙虚さも、持つように努めています。年配の方との雑談は、欠かせません。感謝の気持ちを持つ事が大切です。
さて、私の未来この先どうなることやら、怖いけど、悩むだろうけど、それでも前を向いて、楽しもうとも思っています。
心の傷
心に負った傷は、同じ心根をわかる人の「真心」によって、初めて癒される。
そうやって、人の心というものは、静かに引き継がれていくのだろう。
「真心」とは口で言うほど簡単ではなく、もがき苦しんだ先に初めて見えてくる。間違っても現実逃避(お金や薬等)をした劇薬に頼ってはいけない。その瞬間から心が麻痺してしまうから。
現実に目を背けず、自分のペースでゆっくりでもいいから、前を向いて歩いて行こう。そうすれば、自分に必ず光が射し込むでしょう。
仕事で雑談が必要となる時
業務をする上で雑談やコミュニケーションを一切必要としない。無くても成り立つという考えの人がいる。
私は、その意見をどうしても納得が出来ない。何故なら、雑談をコミュニケーションの基本にする人が、一定数(正直どれ位の割合かはわからないが)存在するからである。
上記の考えの人を完全に否定したいわけではない。成功している人も知っている。ただ、そこには、神がかり的な人間観察力、洞察力が共存している。
その努力や才能無しに、業務を進めると、思い込み、押し付けといった行動になり、コミュニケーションが破綻する。チーム業務の場合は最悪である。
雑談を主とする人も、逆にまた然りである事も、否定は出来ないが。
雑談やコミュニケーションから始まれば、話の中から考え方を耳にする事(認識する事)は容易となる。洞察力等が鋭く無くとも、わかる事が出来るのだ。見えている分、対策も打ちやすい。相手にも、考えが伝わるし、意見の相違を修正出来る。ここで言いたいのは、手法はどうあれ「顕在化」が出来ているか、その一点である。問題点が浮き彫りにならずに、解消する事は困難だろう。
一番危険なパターンは、コミュニケーションを取る努力や工夫をしない人、それをしなくともやれるという才能の無い人が、上司になり、強制力(業務命令)のみで押し付けようとする事である。
今のご時世言う事を聞かない、若い人の独自の考え方があるのだから。まずは、相手を理解する(手法は沢山必要)努力が必要であると思う。
「信頼」について。
「信頼」について。
「信頼」は「信じる」と「信じてもらえる」。「頼る」と「頼られる」。この4つの要素が、周囲と成立して初めて成り立つものではないかと思います。
「自信」と「過信」。このギャンブルのような背中合わせの代物を、「確かな自信」に持っていくのに必要なのが「信頼」ではないかと考えます。
頼られている、信じてもらえているという安心感を感じているから、人は思い切って一歩を踏み出せるのではないでしょうか。
自分の責任は自分でというのは、「信頼」という前提があって初めて機能し、それが無ければ、ただの独りよがりになるでしょう。
そして、いつか取り返しのつかない結果にたどり着くのだと思います。
「信頼」の構築は、周囲に感謝を示すことから始まります。
道無き道を進む時
仕事をしていてよく思う。
勝ったもの、結果が出たものがルールになる。王道となる。
成果が求めれる以上、当然の事だろう。
誰もやった事の無い領域を任された時、やり方にルールは無いと言っていい。アイディアを出し、他の人がやらない手法で我慢強くトライすると、結果が良いことが多い、違いが出るので可能性が高い事が分かっている。
一人でやる分には自分で責任を持てばいいのだが、複数で部下と同時進行でやる際には、勝手が違ってくる。
最も難しい局面は、オリジナリティがあり、前例が無い手法に対して、否定的な部下がいる時である。そういう人は道無き道を進む時に見えないレールを引く事に慣れていない。自分の中でも、その意見を完全否定するつもりは無いが、仮に上手くいったとしても、予想の範囲に近い成果しか望めないであろうと、感じてしまう。
時間は限られているし、予測の範囲のものを提供したとして、ライバル会社でも同じ事が出来るだろう。
業務の選択肢は、多数ある事は否定出来ないが、道無き道を進む時は特に、ビジョンを共有して、自分を(自分達を)信じて、逃げずに進むべき必要があると感じる。